みどり

作家​ 西 加奈子さん

 みどりは、「分からない」が嫌いだ。
 幽霊や宇宙人、UMAに始まり、未解決事件からオーパーツに至るまで、あらゆる「分からない」を忌避している。
 先日は、同僚と行ったバーで大声を上げてしまった。マジシャンが皆に見せていたはずのハートのエースが同僚のポケットに入っていたときだ。
 なんで? どうして? なんで? なんで?
 みどりにとって、それは皆が言う「ただのマジックじゃん(笑)」ではなかった。「分からない」はおしなべてみどりを脅かす。そう、嫌いなのではなく、怖いのだ。

 小さな頃、みどりがいつも会っていた人がいた。
 実家には桜の木があった。樹齢がかなり経っていて、剪定や毛虫の駆除が大変だったが、毎年咲くピンク色の美しい桜は、家族皆を慰めた。だが、みどりが楽しみにしていたのは、桜の花が咲く少し前、枝に蕾が出来る頃だった。毎年その時期になると、木の下におばさんが現れるのだ。黄緑色のジャージ上下を着た、白髪混じりのお団子頭のそのおばさんは、腰を突き出したり、奇妙なステップを踏んだりして、それはダンスともなんとも言えないものだったが、とにかくとても楽しそうで、それを見ているみどりも、思わず大笑いしてしまうのだった。だからみどりはある日家族に、そのおばさんの話をした。
「桜の木の下に、おばさんがいるんだ。」
 家族皆が凍りついたのが、幼いみどりにも分かった。それは、良い兆候ではなかった。案の定、家族はみどりを質問攻めにした。
 それは誰? うちの庭で何してるの? 知ってる人?
 みどりは「分からない」、と答えた。その答えに、家族は納得してくれなかった。
 分からないって何? 知らない人ってことでしょ? うちの庭に? 誰よそれは!
 その日からみどりは、「分からない」はいけないことなのだと考えるようになった。おばさんは、桜の下に現れなくなった。
 さて、みどりが育ったのは、「分からない」をなくすにはうってつけの時代だった。インターネットが登場したのだ。みどりはあらゆることを検索し、検索し、検索した。「分からない」は順調になくなり続け、だからたまに「分からない」に触れると、みどりは、はっきりと恐怖を感じるようになった。もっと「分からない」を消さなければ!   
 みどりはもちろん、検索を重ねて、例のマジックの仕組みも知るようになっていた。だから、同僚たちから再びマジックバーに誘われたとき、みどりは万全の体勢だった。
 同じようなマジックのはずだった。マジシャンが皆に見せていたカードが、誰かのポケットに入っているマジック。そして今回はその役を、みどりが引き受けただけのことだった。だが、みどりがポケットで発見したのは、カードではなく、思いがけず固いものだった。取り出すと、それは人形だった。マジシャンはポーカーフェイスを貫いていたが、同僚たちは声を上げた。

「えー、それは何?」
 みどりは、声を失っていた。腰を後ろに突き出し、歯をむき出しにして笑っているその人形は、昔桜の木の下にいた、あのおばさんだった。黄緑色のジャージ上下、白髪まじりのお団子頭のおばさんが小さくなって、人形になって、そこにいたのだ。
 なんで? どうして? これは何? なんで? なんで?
 みどりは咄嗟にスマートフォンを探した。だがそれは、預けたバッグの中だった。
「ねえ、それ知ってるの?」
 同僚たちにそう聞かれたみどりは、答えようとした。今度こそ、「分からない」以外の何かを。
「これは、」
 みどりは、そこで言葉を止めた。パニックに陥っていたのもあるが、それよりも人形を見ることに夢中になっていた。人形は、おばさんは、やはりとても楽しそうだった。とてもとても楽しそうだった。みどりはそのとき、あの日恐れていた家族に、「でも、おばさんはいつもとっても楽しそうだよ」、そう言うべきだったと思った。急に思った。
「分からない。」
 えー、と、同僚たちが声を上げた。マジシャンは、少しだけ笑った。
「どうぞ、お持ち帰りください。それは、あなたのものです。」
 そう言われなくても、みどりはそのつもりだった。
 人形の硬さは心地よく、何度も触っているうちに割れてしまった。人形がなくなってしまったことはもちろん寂しかったが、みどりは今も蕾の季節が楽しい。とても楽しい。

BAUMが西 加奈子さんに託した背景

サクラツリーの香りは、桜の蕾がほころぶ瞬間の、樹木の息吹の香り。
過酷な冬の季節のあいだ、樹木がその内側にたくわえてきた静かで力強いエネルギー。その生命力の高まりによって蕾が花開く瞬間に着目しました。

桜の樹は、華やかに咲きほこる時もあれば、幹と枝だけになる時もあります。
これは、人にとってハレの日だけでなく、ケの日があるということにも通じます。
樹木も人も、明快で華やかな時もあれば、時には複雑ながら力強い時もある。
サクラツリーという樹木の香りを言葉にすることは、等身大の人間の様子をまるごと描く西加奈子さんの世界観を、私たちに思い起こさせました。

新鮮さと同時に不安や儚さも感じる早春は、「蠢く(うごめく)」がごとく、内なるエネルギーがもぞもぞ動き、春に向けて準備を始めます。その正体の分からなさは、ときに不安を呼ぶかもしれませんが、新しい何かが生まれる直前の生命力なのかもしれません。

サクラツリーの香りを感じ、自身の中で芽吹く内なる蕾のエネルギーを楽しみ、前向きな気持ちになって頂きたい。
そんな思いを西さんにお伝えし、サクラツリーの香りからインスピレーションを受けた小説を書いて頂きました。

西 加奈子さん

作家

西 加奈子(にし・かなこ)1977年、イラン・テヘラン生れ。エジプトのカイロ、大阪で育つ。2004年に『あおい』でデビュー。2007年『通天閣』で織田作之助賞、2013年『ふくわらい』で河合隼雄物語賞、2015年『サラバ』で直木賞、2024年『くもをさがす』で読売文学賞を受賞。ほか著書に『さくら』『漁港の肉子ちゃん』『ふる』『i』『夜が明ける』『わたしに会いたい』など。


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